あなたが努力に裏切られる本当の理由

 

努力してもうまくいかないことがある。これは事実だ。では、自分の努力の仕方が間違っている可能性を考えたことはあるだろうか。

あなたの努力が報われないのは、決してあなたのせいではない。やり方が間違っているか、運が悪かったかのどちらかだ。

人は何かをするとき、すでに誰かがやったやり方と同じ方法をとる。誰かがやって成功したやり方をとったほうが成功しやすいと考えるからだ。しかし、いくらやってもうまくいかない。自分には才能がなかったんだと、諦めてしまう(才能なんて言葉は意味がないのだが)。その方法が間違っていたと考えもしない。なぜなら、すでにその方法で成功した人がいるからだ。

中には、そこに気づく人もいる。「別のやり方を探そう」そう言って別の人が成功したやり方を試してみる。それでもうまくいかない。やっぱりダメじゃないかと諦めてしまう。

ネットや本で探してきた方法の評判が高ければ高いほど、失敗したときに自分を責めてしまう。信じれば信じるほど、裏切られたときのショックは強くなる。

何度でも言う、失敗したのはあなた悪いわけではない。やり方が間違っていただけだ。あなたに合った方法さえ見つければ、必ず成功する。成功に必要なのは、正しいやり方と、時間(試行回数)、想いの3つだけだ。あと時々、運やタイミングが重要だったりするが、これは試行回数でカバーできる。それ以外に必要なものはない。

 

①あなたのためだけのやり方を探そう
努力は、正しい方法を見つけ出し、その方法をどれだけ繰り返したかで、その強度が上がる。そもそも性格や環境も違う人間がまったく同じやり方で成功するわけがない。成功するのは近いパーソナリティを持った人たちだけだろう。

ではどうやってその「自分に合った努力の仕方」を探すのか、それはまた次回。

 

②時間(試行回数)

「成功するためには努力しかない」と言われると、そんなことわかってる!と大声で叫びたくなる。わかっていることを何度も言われるとイライラしてくる。でもぼくらは知っているいくら時間をかけて頑張ってもできないものはできないのだ。成功や努力の話になると時間が引き合いに出されることが多い。まるで時間をかけることが美徳であるかのように。しかしそれも仕方ない、成功するための努力の仕方は人それぞれなので、それを測るためには時間というモノサシを使うしかないというわけだ。

本質は時間ではなく、時間をかけて、繰り返し試行し、その方法の精度を上げていくことにある。精度をあげ、そのやり方でより短時間で効率よく経験値を得られるように調節していく。これが努力における時間の考え方である。

 

③想い

どんな夢や目標も想いがなければ叶わない。想いがなければ、正しいやり方を見つける前に諦めてしまうし、試行回数を積むこともできないだろう。そして諦めないということの他に、想いが必要な理由がある。それはただしいやり方を見つめるための道標になるということだ。

例えばミュージシャンになりたいとする。毎日楽器や歌の練習をしてプロを目指す。一度、オリジナル曲のCDを音楽レーベルに送って見たが連絡がない。諦めずもっと練習した。また送ってみたが連絡がない。もっともっと練習した。何度送っても連絡がない。そのうち夢を諦めてしまう。

どうして彼の夢は叶わなかったのだろうか、ここまで読んでくれたあなたなら気づくことができる。努力の仕方が間違っていたのかもしれないということだ。では想いがその努力の仕方を見つけるための道標になるとはどういうことか。彼は「なぜその夢を叶えたいと思ったか」を思い出さなくてはならない。ミュージシャンになりたい理由、音楽で人を感動させたい、大好きな音楽で生活したい、たくさんの人の前で自分の音楽ができたら気持ちいいだろうな、そんな理由だったはずだ。いつのまにか、音楽レーベルに入ることが目的になっていたんじゃないか。いい音楽をつくる努力ではなく、誰かに音楽を届ける努力が必要だったんじゃないか。 

 

何か夢や目標に向かって努力しているあなたへ
どんなに失敗しても、決してあなたのせいではない。たまたま運が悪かっただけだ。どうしてもうまくいかないようなら、やり方が間違っていないかもう一度考えてみよう。時間がかかったっていい、何度も試して修正していこう。想いがあなたを導いてくれる。


努力は必ず報われるとは限らないが、報われるためには努力しなければならない。

 

「才能」なんてクソ食らえ

 

 

将来の話になると、大抵「才能」の話になる。ぼくが音楽の仕事をやりたいと言ったときもそうだった。親は「音楽の世界は才能のある一握りのやつしか生活できない」と言った。そんなことはないと思ったし、今でもそう思っている。

結局のところ、今、ぼくは音楽の仕事をしていないし、答えなんてないので個人的な意見でしかなのだけれど。ぼくの話はまぁいいや。

重要なのは、親に反対されたあの日のぼくの根拠のない自信というか、「才能がすべてじゃない」と確信のようなものが見えていた気がする。あれが何であったかということだ。

人は「才能」という言葉は使うくせに、才能の有り、無しをはっきりと示すことはできない。答えは簡単だ。「才能」はとても曖昧で、出てきたり消えたりするからだ。

才能は比較の中にしか存在しない。数学の得意なA君とそうでもないB君がいれば、A君のほうが才能があるとみんな言うだろう。もしここにもっと数学が得意なC君が現れれば途端にA君は大したことがないように見えてくる。それでもB君から見ればA君は才能があるように見えているだろう。1年後、B君がめちゃくちゃ勉強してA,C君の成績を上回ったとしたら、B君にはやっぱり才能があったんだねとかみんな言うようになるんだ。バカみたいだ、状況や時間や視点の違いでヒラヒラと形を変える、こんな曖昧なもののせいで、たくさんの人が夢を諦めたんだ。

『才能=(わたしから見て)すごい、他の人とは違う』こう書くと「ヤバい」とか「パない」とかと変わらないように思えてくる。

もし夢や目標を「才能あるやつしか」とか、つまらない言葉で片付けられそうになっている人がいたら、気にすることはない。「才能」という言葉は、人に何かを諦めさせる時に使いやすく、かつ効果がある言葉だ。誰もが通ってきた第一関門、まずは「才能あるやつしか無理だろう」と言ってきた人を納得させられるような何かを示そう。行動あるのみ。

 

もう一つ問題があるとすれば、自己評価するときの「私って才能ないかも」だ。努力してるのに、自信がもてないか、もしくは評価がついてこなくて不安であるか、そもそも努力してないか。努力してない人には行動しろというしかないが。

自信がない人はこちらも読んでみてほしい。ヒントになるかもしれない。

shoutrock2.hatenablog.com

 

 結果がでない人の話は次回に続きます。

次は努力の仕方の話。

 

 

「自信がない」は、否定か謙虚か、それともエゴか。

 

「自信がない」は、いつまでもぼくの後ろをついてくる。いくら自分に「大丈夫」と言い聞かせても足が震える。本当に正しいのだろうか、変に思われないだろうか、自分は滑稽に見えていないだろうか。

「自信がないこと」と「他人にどう見られているか」の2つは常に対となる。他人より優れているから正しい。(他者が設定した)答えを正しく導き出している。自信はいつも自他の比較から生まれる。

「自信がないから他人の目が気になる」と思いがちだが、実はその逆で、他人の目がなければ自信があるとかないとかなんて気にしないし、考えない。

部屋で1人でいるとき、人は本来の自分になれる。学校や会社では見せない格好、しぐさ、笑い方、食べ方、だらしなさ、汚さ、無邪気さ。

しかし、ひとたび街に出れば、身なりを整え、仮面をかぶり、周りの人間とのバランスを図り、人間関係にビクビクする。これが当たり前なのだが、なんだろう。違和感は消えることがない。

これはエゴなのかもしれない。「自分がどう見えているか」を他人に委ねてはいけない。自分で「自分が何ものであるか」を決められず、他人に丸投げしている。自分の姿は自分で決める。理想に届かなくとも責めることはない。

信念さえ曲げなければ、どう見られても関係ない。

自信は、自分を信じると書くじゃないか。